こんばんは
中の人です
ついこないだまで
暑さに精魂持ってかれそうになっていたと思っていたら
あっという間に
十五夜も過ぎ
金木犀の香るいい季節になっておりますが
みなさま
いかがお過ごしでしょうか
もちろん四季折々
それぞれの美しさもあるのでしょうが
今と定義する瞬間瞬間に意識をおいて
深く味わい感じ尽くすのも
通りすぎてしまう時間の中を
過ごす我々の特権ではないでしょうか
先日の事ですが
夕方
車の運転中
信号待ちの時に窓を開けてみたところ
秋には秋特有の
空気感や温度があると感じました
それは
どこからか流れてくる金木犀の香りのせいなのか
湿度や日中との気温差から肌で感じるものなのか
はたまた
街頭や月明かり
信号機
車のライトのように
影など
澄んだ空気を通って飛び込んでくる
視覚的な情報
からなのかもしくは
それらが相まって構成されるゲシュタルトが
無意識の奥に溶け込んだ記憶とリンクして
顕在的に浮上してきたものを
「秋特有」として構成し認識しているものを
感じている
だけなのか
"記憶"
と
ひと口に云っても
そこには五感で得た情報以外にも
感情や思い描き想像したものまで含まれ
脳には刻まれていはずです
それを考えると
その莫大な量の情報は
当然年齢とともに蓄積されてゆくものですから
この場合例えるなら
季節一つをとっても
感じるものは良くも悪くも
奥深く色濃くなってゆくものなのかもしれませんね
モノは言いよう考えようとは云ったものですが
こう云ったところに着目してみると
年齢をかさねるというのも
いいものですね
俯瞰的に見れば時間の流れは一定ですが
(相対性理論の物理理論の事は傍に置いておいて)
主観的には
時間と共に通りすぎて行く情報の
"受け取る"
量は歳と共に増えて行くのではないでしょうか
その所為か
新たな感覚と所謂いつも通りの反応を
同時に体感する事が時々あります
「このわたし」
を
わたしとして確かに認識できるのは
記憶があるからだと云います
しかし
認識しているこのわたしという人体さえ
分子のレベルでは爆発的な速度で
入れ替わりが起きていると云われています
その記憶を司る脳でさえも
しかし
それでも「このわたし」たる「このわたし」は
どんなに足掻いてもエントロピー増大の法則が襲ってくるまでは
確かに此処に存在しています
いのちあっての物種
わたしという個体を情報が通り過ぎてゆくのか
情報の流れの中でわたしという個体が現象として存在するのか
そのどちらもなのかもしれない
或いは
それ以外の何かがあるのかもしれない
そしてそれも
「観測者」として
得た情報の蓄積された構造を持つ
「このわたし」
によって絶えず変化してゆく
つまりこの世界は
こちら側
の選択
或いは主観
により創られてしまう
のかもしれない
卵が先か鶏が先か
秋の夜長
くらいくらい夜の闇が染み込んだ
ながいながい道すがら
どこからともなく呼ぶ声に
脇見
寄り道
帰らぬことは還ること
呑み込まれる事のないように
気をつけろ
いやぁ
久しぶり
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